3月28日(月)5日目、震災より17日目 [Ishinomaki]
明日はキリバスに戻る飛行機に乗らなければならない。
自分がここで活動できるのは午前中いっぱいまで。
パートナーに自分が担当した部分を引き継ぎ、運用フローを作った。
最後に一通りの作業を彼に一人で実施してもらう。全てちゃんと動いた。
あとはデータの精度を上げていけば、いろいろ活用していけるはず。
この日はよく晴れていて、別れ際に芝生の上に座り缶コーヒーを飲んだ。
最初はとりとめもない話をしていたが、
やがて彼は静かに語り始めた。
「その夜は絶望だった。これが現実とはとても思えなかった。
はやくこの悪い夢が過ぎ去ってほしいと思った」と。
彼には幼稚園に通う子供がいる。
地震の直後、彼はすぐに幼稚園に子供を迎えに向かった。
しかし、たどり着くことはできなかった。
道路が渋滞する中、津波が押し寄せてきたのだ。
彼はやむなく家に引き返したそうだ。
その心中察するに余り有る。
彼はどうにか生き延び、混乱のなか再びわが子を探しに幼稚園に向かった。
津波が運んだ海水は夜になっても引かない。
彼は腰まで冷たい海水につかり、どうにか幼稚園近くの避難所となっている小学校にたどり着いた。
そこで子供に会うことはできなかったが、幼稚園は2階に避難してみな無事との情報を得ることができた。
そして彼はそのままその避難所で夜を明かした。
その夜、彼は絶望を感じた。
彼の話はあまりにも壮絶で、僕は口を開くことができなかった。
翌日、家族は再開を果たすことができた。
家も浸水は免れた。
しかし一帯はまさに地獄。
食糧や物資が全く手に入らない状態が続いた。
そんなある日、彼の家の前にある男がやってきた。
その男は食料やオムツなどを配ってくれた。
彼は助けがきてくれたことが嬉しくて、ほっとして、泣いたそうだ。
その男の名は、てんつくマン。
そう、このブログでも登場したことがあるあの男である。
彼はてんつくマンの姿を見て、自分もなにかしなきゃと決意した。
そしてどうにか自分の生活が落ち着き始めたころ、てんつくマンが代表を務めるNPO"MAKE THE HEAVEN"に参加するため、石巻市災害ボランティアセンターにやってきた。
僕は彼が自分の得意分野で石巻の復興に力を発揮し、やりとげることができると確信している。
もちろん彼は被災者なわけで、まだまだ生活は大変なはずだ。
だから無理をしないで、自分のできる範囲で、休みながら活動して欲しい。
ここでの主役はNPOや僕らのようなボランティアでなく、石巻市民自身。
ここからどうやって新しい石巻を創っていくか。
彼のように若くて優秀な人たちにリードしていって欲しいと思う。
彼と出会うことができ、一緒に仕事をすることができて本当に嬉しかった。
彼らは必ず新しい石巻を創ることができる。
来年帰国したらその姿を見に行くよ。
石巻市支援NPO連絡会IT担当。石巻市災害ボランティアセンター前にて。
自分がここで活動できるのは午前中いっぱいまで。
パートナーに自分が担当した部分を引き継ぎ、運用フローを作った。
最後に一通りの作業を彼に一人で実施してもらう。全てちゃんと動いた。
あとはデータの精度を上げていけば、いろいろ活用していけるはず。
この日はよく晴れていて、別れ際に芝生の上に座り缶コーヒーを飲んだ。
最初はとりとめもない話をしていたが、
やがて彼は静かに語り始めた。
「その夜は絶望だった。これが現実とはとても思えなかった。
はやくこの悪い夢が過ぎ去ってほしいと思った」と。
彼には幼稚園に通う子供がいる。
地震の直後、彼はすぐに幼稚園に子供を迎えに向かった。
しかし、たどり着くことはできなかった。
道路が渋滞する中、津波が押し寄せてきたのだ。
彼はやむなく家に引き返したそうだ。
その心中察するに余り有る。
彼はどうにか生き延び、混乱のなか再びわが子を探しに幼稚園に向かった。
津波が運んだ海水は夜になっても引かない。
彼は腰まで冷たい海水につかり、どうにか幼稚園近くの避難所となっている小学校にたどり着いた。
そこで子供に会うことはできなかったが、幼稚園は2階に避難してみな無事との情報を得ることができた。
そして彼はそのままその避難所で夜を明かした。
その夜、彼は絶望を感じた。
彼の話はあまりにも壮絶で、僕は口を開くことができなかった。
翌日、家族は再開を果たすことができた。
家も浸水は免れた。
しかし一帯はまさに地獄。
食糧や物資が全く手に入らない状態が続いた。
そんなある日、彼の家の前にある男がやってきた。
その男は食料やオムツなどを配ってくれた。
彼は助けがきてくれたことが嬉しくて、ほっとして、泣いたそうだ。
その男の名は、てんつくマン。
そう、このブログでも登場したことがあるあの男である。
彼はてんつくマンの姿を見て、自分もなにかしなきゃと決意した。
そしてどうにか自分の生活が落ち着き始めたころ、てんつくマンが代表を務めるNPO"MAKE THE HEAVEN"に参加するため、石巻市災害ボランティアセンターにやってきた。
僕は彼が自分の得意分野で石巻の復興に力を発揮し、やりとげることができると確信している。
もちろん彼は被災者なわけで、まだまだ生活は大変なはずだ。
だから無理をしないで、自分のできる範囲で、休みながら活動して欲しい。
ここでの主役はNPOや僕らのようなボランティアでなく、石巻市民自身。
ここからどうやって新しい石巻を創っていくか。
彼のように若くて優秀な人たちにリードしていって欲しいと思う。
彼と出会うことができ、一緒に仕事をすることができて本当に嬉しかった。
彼らは必ず新しい石巻を創ることができる。
来年帰国したらその姿を見に行くよ。
石巻市支援NPO連絡会IT担当。石巻市災害ボランティアセンター前にて。
3月27日(日)4日目、震災より16日目 [Ishinomaki]
この日はパートナーを得ることができた。
彼は地元でWeb広告業を営んでいるSE、30歳。
二人でアイデアを出し合いながら作業を分担し、今日中にシステムを完成させることを目標に動いた。
ボランティアセンターのなかは人の出入りが多く作業に集中できないので、二人で自分のテントに籠って作業した。
そして陽が落ち始める頃、結果的にそれはできあがった。
我ながら面白いものができたと思う。
もちろんみんなのアイデアの集合体であるし、いくつかのミラクルも起きた。
【システムフロー】
①ボランティアが各避難所で聞き取ったことを調査票に記入してくる。
②調査票を集め、連続スキャナでPDF化し、”P”の東京オフィスに送信する。(Dropbox共有)
③東京オフィスのボランティアが、調査票PDFを見てエクセルにデータを入力する。
④入力されたエクセルファイルから、batchgeoで地図を生成する。
⑤googleマップに避難所のピン及び人数などの情報を表示する。
⑥メーリングリスト(googleグループ)でマップのURLを配信する。
⑦各ボランティアが自分のノートPCやi-pad、スマートフォンでマップを閲覧する。
彼とは急ごしらえのチームだったが、よいチームワークで動くことができた。
正直システムエンジニアはもう辞めるつもりでいたが、
こんなにもやりがいを感じたのは初めてだったかもしれない。
彼も「こんなに充実して密度の濃い一日は久しぶり」と言ってくれた。
ちなみに今回作ったシステムを一言で表すと”フリーWEBクラウド”。
今回、僕らはプログラム・コードを1行も書いていない。
そして、1円もお金を払っていない。
インターネット上に存在する無料のサービスを組み合わせてこの仕組みを作った。
それでもこれだけの仕組みが動いてしまう。
クラウド・コンピューティングの凄さを体感した。
世界は知らぬ間にどんどん進化しとるんだねぇ。
話は変わるけど、災害ボランティアに参加中のボランティアの食糧は、各ボランティアが被災地以外のエリアから持ち込むのが原則。
今回自分も食糧を持ち込んでいたが、ボランティアの為におにぎりを握ってくれたり、炊き出しをしてくれる方もいる。
この夜は北海道からきたラーメン屋さんがそれはそれは美味しいラーメンを振舞ってくれた。
厳しい中にもこういうほっとする出来事があるとまた明日に向かうちからが湧いてくる。
彼は地元でWeb広告業を営んでいるSE、30歳。
二人でアイデアを出し合いながら作業を分担し、今日中にシステムを完成させることを目標に動いた。
ボランティアセンターのなかは人の出入りが多く作業に集中できないので、二人で自分のテントに籠って作業した。
そして陽が落ち始める頃、結果的にそれはできあがった。
我ながら面白いものができたと思う。
もちろんみんなのアイデアの集合体であるし、いくつかのミラクルも起きた。
【システムフロー】
①ボランティアが各避難所で聞き取ったことを調査票に記入してくる。
②調査票を集め、連続スキャナでPDF化し、”P”の東京オフィスに送信する。(Dropbox共有)
③東京オフィスのボランティアが、調査票PDFを見てエクセルにデータを入力する。
④入力されたエクセルファイルから、batchgeoで地図を生成する。
⑤googleマップに避難所のピン及び人数などの情報を表示する。
⑥メーリングリスト(googleグループ)でマップのURLを配信する。
⑦各ボランティアが自分のノートPCやi-pad、スマートフォンでマップを閲覧する。
彼とは急ごしらえのチームだったが、よいチームワークで動くことができた。
正直システムエンジニアはもう辞めるつもりでいたが、
こんなにもやりがいを感じたのは初めてだったかもしれない。
彼も「こんなに充実して密度の濃い一日は久しぶり」と言ってくれた。
ちなみに今回作ったシステムを一言で表すと”フリーWEBクラウド”。
今回、僕らはプログラム・コードを1行も書いていない。
そして、1円もお金を払っていない。
インターネット上に存在する無料のサービスを組み合わせてこの仕組みを作った。
それでもこれだけの仕組みが動いてしまう。
クラウド・コンピューティングの凄さを体感した。
世界は知らぬ間にどんどん進化しとるんだねぇ。
話は変わるけど、災害ボランティアに参加中のボランティアの食糧は、各ボランティアが被災地以外のエリアから持ち込むのが原則。
今回自分も食糧を持ち込んでいたが、ボランティアの為におにぎりを握ってくれたり、炊き出しをしてくれる方もいる。
この夜は北海道からきたラーメン屋さんがそれはそれは美味しいラーメンを振舞ってくれた。
厳しい中にもこういうほっとする出来事があるとまた明日に向かうちからが湧いてくる。
3月26日(土)3日目、震災より15日目 [Ishinomaki]
朝起きて、願いながらメールをチェックする。
来てる!
地球のちょうど裏側の南米ボリビアから、期待以上のものが返ってきていた。
彼はPC隊員のなかでも技術力の高さと知識の豊富さで皆から尊敬されている存在。
彼が調べてくれたのが、Batchgeoという、スプレッドシートのデータから自動的に地図上に目印をマッピングしてくれるWEBクラウドサービス。
さっそく運用を始めていたエクセルデータを利用して、地図を作成してみる。
この結果には興奮した。エクセルデータが用意されていれば、瞬時に地図を生成できてしまう。
いろいろ試し、どうやら物になりそうだと確信し、”P”のメンバーたちに提示する。
彼らもこれには興奮したようだった。
ちょうどsoftbankからi-pad10台の提供を受けたところだったので、現場の部隊にi-padを渡して活用しようと話が膨らんでいく。
ある程度形が見えてきたところで、この日は作業終了。
ちなみにボランティア活動をしているNPOの人々は死ぬほど働いている。
1週間以上風呂も入れず、まともな食事もできずに頑張っている。もちろん女子もである。
自分の団体のPRという側面もあるんだろうけど、まあたいしたものである。
今回、石巻市には大小さまざまなNPOが入っている。
・国際交流事業を展開している"ピースボート"
・競艇の売り上げで活動している"日本財団"
・小林武史×桜井和寿の"ap bank"。小林武史本人が石巻入りしていた。
・"青年海外協力隊OB会"。なんか恥ずかしくって声は掛けなかったが、頑張ってました。
・四万十川でカヌーツアーをやっている"四万十塾"
・たぶんキャンプ好きの集まり"キャンパー"
・カナダからきた医療チーム"CMAT"
・なんかようわからん"MAKE THE HEAVEN"
・NPOじゃないけど、たぶん建設会社の"○○組"
その他、20ほどの団体が、炊き出し、泥出し、物資運搬、医療などそれぞれの得意分野で活動していた。
キツい環境だけど、みんな活き活きと活動していた。
正直自分は大きな災害が身近に起きたことがなかったので、
災害に備えるということを全くしてこなかった。
今回の経験から、帰国後は今回一緒に動いた団体のいずれかに参加し、
常に災害が起きた場合に備えて活動ができる準備をしておきたいと思った。
来てる!
地球のちょうど裏側の南米ボリビアから、期待以上のものが返ってきていた。
彼はPC隊員のなかでも技術力の高さと知識の豊富さで皆から尊敬されている存在。
彼が調べてくれたのが、Batchgeoという、スプレッドシートのデータから自動的に地図上に目印をマッピングしてくれるWEBクラウドサービス。
さっそく運用を始めていたエクセルデータを利用して、地図を作成してみる。
この結果には興奮した。エクセルデータが用意されていれば、瞬時に地図を生成できてしまう。
いろいろ試し、どうやら物になりそうだと確信し、”P”のメンバーたちに提示する。
彼らもこれには興奮したようだった。
ちょうどsoftbankからi-pad10台の提供を受けたところだったので、現場の部隊にi-padを渡して活用しようと話が膨らんでいく。
ある程度形が見えてきたところで、この日は作業終了。
ちなみにボランティア活動をしているNPOの人々は死ぬほど働いている。
1週間以上風呂も入れず、まともな食事もできずに頑張っている。もちろん女子もである。
自分の団体のPRという側面もあるんだろうけど、まあたいしたものである。
今回、石巻市には大小さまざまなNPOが入っている。
・国際交流事業を展開している"ピースボート"
・競艇の売り上げで活動している"日本財団"
・小林武史×桜井和寿の"ap bank"。小林武史本人が石巻入りしていた。
・"青年海外協力隊OB会"。なんか恥ずかしくって声は掛けなかったが、頑張ってました。
・四万十川でカヌーツアーをやっている"四万十塾"
・たぶんキャンプ好きの集まり"キャンパー"
・カナダからきた医療チーム"CMAT"
・なんかようわからん"MAKE THE HEAVEN"
・NPOじゃないけど、たぶん建設会社の"○○組"
その他、20ほどの団体が、炊き出し、泥出し、物資運搬、医療などそれぞれの得意分野で活動していた。
キツい環境だけど、みんな活き活きと活動していた。
正直自分は大きな災害が身近に起きたことがなかったので、
災害に備えるということを全くしてこなかった。
今回の経験から、帰国後は今回一緒に動いた団体のいずれかに参加し、
常に災害が起きた場合に備えて活動ができる準備をしておきたいと思った。
3月25日(金)2日目、震災より14日目 [Ishinomaki]
簡単に朝食を取り、9時からNPO”P”に合流。
しかし「一度現場を見てきたほうがいい」と勧められ、
午前中は社協のボランティアに参加することにした。
社協ボランティアの仕組みは、その日参加するボランティアを集め、住民からの要請に割り当てていく方式。
そんなに要請が多いわけでもないが、またボランティアも多くはないので、
集まったボランティアがどんどん出動していく。
TVニュースで、どこかのボランティアセンターで出動をずっとまってるボランティアたちの姿をみたが、
ここは状況が違う。
いまの状況では、寝床(ホテルなどはやってないので、テント以外の選択肢はない)と
自分の食料を確保できないと入ることはできない。
住民からの要請に応じて、というのが行政らしいやり方。
一方、自ら困っている人々を探しに行くのがNPO。
自分は床上浸水の民家で畳出しなどを手伝うチームに入った。
メンバーは4人。
神奈川から来た50代男性、地元の20代男性、地元の高校卒業したばかりの女性とチームを組む。
他県からのボランティアもまあ大変だが、
自らも被災しているのに、それでもボランティアに参加する地元の若者たちもいる。
頭が下がる。近頃の日本はへんなヤツも多いけど、こういう人たちもまた多いのだ。
現場は床上浸水があった地域の一軒家。
おばあさんが一人で暮らしている。
濡れた畳が腐ってしまうので、外に出す必要があるが、ばあさん一人でできるわけがない。
ボランティアに頼めるという話を聞き、依頼したそうだ。
さっそく仕事にかかるが、水を吸った畳の重さは想像以上。
男性2人でも引きずってようやく運べるほどの重さ。
泥水を吸っているので、なんともいえない匂いが漂う。
女の子には散乱した物の片づけを頼み、男性3人で家具を移動しながら合計20畳を外に出した。
お恥ずかしいが、ディスクワークでなまった身体は悲鳴を上げる。
やはりこういう現場はマッチョな方々が活躍できそうだ。
浸水してしまったものはもう捨ててしまうしかない。
家が損壊しなかったといっても、ダメージはかなりのものであろう。
昼前にこの現場での仕事を終えたので、少し海沿いを見にいくことにした。
テレビで報じられている、あの風景。
家が、車が、船が、信じられない有様で重なり合っている。
主要道路はガレキの撤去が済んでいて車が通ることはできるが、
ここはまだまだ自衛隊の活動範囲。一般人は何もすることができないだろう。
午後から”P”に合流した。
”P”は有名なNPOで、自分もその存在や活動内容を知ってはいたが、災害救援活動をしていることは知らなかった。
”P”は明日、東京から50人規模の一般ボランティア部隊をバスで入れるとのこと。
マネーとパワーの存在を感じる。
”P”のメンバーとミーティングを行い、今何が必要かを話し合った。
・現場がかなり混乱していて、NPO同士の連携・連絡がうまくとれていない。
・避難所が多すぎて、しかも状況が流動的なので、物資や食料のニーズを正確に把握できない。
・それでも公式避難所はカバーできるようになってきたが、
非公式な避難所や避難所外被災者(自宅など)にほとんど食糧が行きわたっていない現実がある。
そこで、避難所情報を管理するシステム、さらにそのデータを地図上で閲覧することができるシステムを組んで欲しいということに。
といってもそんな混乱した現場で、自分一人で、短期間で、なにができるのだろうか・・・。
とにかく始めてみようと、あれこれ試しながら、データ管理はシンプルでメンテナンスが容易であることを重視して、
スプレッドシート(MS Excel)で管理することに。
1レコード1避難所で管理しておけば、項目は随時追加や修正することができると思ったので。
マッチングやデータの整合性を保つのはちょっと難しいが、扱いやすさを重視した。
もちろんデータベースで管理するのが理想だが、メンテナンスができなくなってしまう危険性が大きい。
地図についてはgoogleマップのマイマップ機能を利用することにしたが、
1件1件地図上にピンを指してデータを入力していくのはとても大変。
でもそれ以上のアイデアは出ず、この日の作業は終了。
身体はとても疲れていたが、自分の能力以上の仕事を引き受けてしまったプレッシャーで寝つけず。
こりゃたまらんと、JOCVのPC隊員たちにメールで支援を要請した。
あらゆるIT分野の人がいるので、何かアイデアがでてくるはずと期待し、ちょっと気が楽になり、寝付くことができた。
夜半から雪が降り始める。
雪が降っていたほうが意外と暖かかったりする。
冬のキャンプは初めてだが、どうにかなるものだ。
同宿の二人もこんな寒いなかで寝るのは初めてとのこと。
一人は横浜からヒッチハイクでやってきた20代のダイビング・インストラクター。
もう一人は宮崎県!からやってきた50代の損保代理店経営者。
立場や事情はそれぞれ異なるが、「何かしたい」と思う気持ちから生まれる行動はいっしょ。
しかし「一度現場を見てきたほうがいい」と勧められ、
午前中は社協のボランティアに参加することにした。
社協ボランティアの仕組みは、その日参加するボランティアを集め、住民からの要請に割り当てていく方式。
そんなに要請が多いわけでもないが、またボランティアも多くはないので、
集まったボランティアがどんどん出動していく。
TVニュースで、どこかのボランティアセンターで出動をずっとまってるボランティアたちの姿をみたが、
ここは状況が違う。
いまの状況では、寝床(ホテルなどはやってないので、テント以外の選択肢はない)と
自分の食料を確保できないと入ることはできない。
住民からの要請に応じて、というのが行政らしいやり方。
一方、自ら困っている人々を探しに行くのがNPO。
自分は床上浸水の民家で畳出しなどを手伝うチームに入った。
メンバーは4人。
神奈川から来た50代男性、地元の20代男性、地元の高校卒業したばかりの女性とチームを組む。
他県からのボランティアもまあ大変だが、
自らも被災しているのに、それでもボランティアに参加する地元の若者たちもいる。
頭が下がる。近頃の日本はへんなヤツも多いけど、こういう人たちもまた多いのだ。
現場は床上浸水があった地域の一軒家。
おばあさんが一人で暮らしている。
濡れた畳が腐ってしまうので、外に出す必要があるが、ばあさん一人でできるわけがない。
ボランティアに頼めるという話を聞き、依頼したそうだ。
さっそく仕事にかかるが、水を吸った畳の重さは想像以上。
男性2人でも引きずってようやく運べるほどの重さ。
泥水を吸っているので、なんともいえない匂いが漂う。
女の子には散乱した物の片づけを頼み、男性3人で家具を移動しながら合計20畳を外に出した。
お恥ずかしいが、ディスクワークでなまった身体は悲鳴を上げる。
やはりこういう現場はマッチョな方々が活躍できそうだ。
浸水してしまったものはもう捨ててしまうしかない。
家が損壊しなかったといっても、ダメージはかなりのものであろう。
昼前にこの現場での仕事を終えたので、少し海沿いを見にいくことにした。
テレビで報じられている、あの風景。
家が、車が、船が、信じられない有様で重なり合っている。
主要道路はガレキの撤去が済んでいて車が通ることはできるが、
ここはまだまだ自衛隊の活動範囲。一般人は何もすることができないだろう。
午後から”P”に合流した。
”P”は有名なNPOで、自分もその存在や活動内容を知ってはいたが、災害救援活動をしていることは知らなかった。
”P”は明日、東京から50人規模の一般ボランティア部隊をバスで入れるとのこと。
マネーとパワーの存在を感じる。
”P”のメンバーとミーティングを行い、今何が必要かを話し合った。
・現場がかなり混乱していて、NPO同士の連携・連絡がうまくとれていない。
・避難所が多すぎて、しかも状況が流動的なので、物資や食料のニーズを正確に把握できない。
・それでも公式避難所はカバーできるようになってきたが、
非公式な避難所や避難所外被災者(自宅など)にほとんど食糧が行きわたっていない現実がある。
そこで、避難所情報を管理するシステム、さらにそのデータを地図上で閲覧することができるシステムを組んで欲しいということに。
といってもそんな混乱した現場で、自分一人で、短期間で、なにができるのだろうか・・・。
とにかく始めてみようと、あれこれ試しながら、データ管理はシンプルでメンテナンスが容易であることを重視して、
スプレッドシート(MS Excel)で管理することに。
1レコード1避難所で管理しておけば、項目は随時追加や修正することができると思ったので。
マッチングやデータの整合性を保つのはちょっと難しいが、扱いやすさを重視した。
もちろんデータベースで管理するのが理想だが、メンテナンスができなくなってしまう危険性が大きい。
地図についてはgoogleマップのマイマップ機能を利用することにしたが、
1件1件地図上にピンを指してデータを入力していくのはとても大変。
でもそれ以上のアイデアは出ず、この日の作業は終了。
身体はとても疲れていたが、自分の能力以上の仕事を引き受けてしまったプレッシャーで寝つけず。
こりゃたまらんと、JOCVのPC隊員たちにメールで支援を要請した。
あらゆるIT分野の人がいるので、何かアイデアがでてくるはずと期待し、ちょっと気が楽になり、寝付くことができた。
夜半から雪が降り始める。
雪が降っていたほうが意外と暖かかったりする。
冬のキャンプは初めてだが、どうにかなるものだ。
同宿の二人もこんな寒いなかで寝るのは初めてとのこと。
一人は横浜からヒッチハイクでやってきた20代のダイビング・インストラクター。
もう一人は宮崎県!からやってきた50代の損保代理店経営者。
立場や事情はそれぞれ異なるが、「何かしたい」と思う気持ちから生まれる行動はいっしょ。
3月24日(木)1日目、震災より13日目 [Ishinomaki]
7時起床。
朝食を食べ、北へ向けて出発。
常磐道日立南太田ICから高速に乗る予定だったが、
その先で事故が発生しまさかの通行止。
開通した矢先に、支援物資が大量に運ばれているだろうに、通行止とは・・・。
トンネル内でのトラックの事故だそう。もしかして支援物資を運んでいたのかも知れない。
やむを得ず下道で次のICを目指す。
渋滞の中、日立中央ICまでたどり着くが、なんと今度は震度5の地震が発生してまた全線通行止めに・・・。
待っていてもいつ再開するかわからないので、常磐道をあきらめて下道で東北道を目指すことにした。
幸い東北道への道のりは空いていて、昼過ぎには福島県須賀川市に着き、東北道に乗ることができた。
東北道は80km規制であった。
自衛隊の車両、救急車や消防車の隊列、「支援物資運送中」の旗をかかげたトラックが目立つが、交通量は少ない。
路面はところどころ段差があるが、応急補修が済んでいて、100km/hで走行しても問題なかった。
福島を抜けるあたりで念のため給油をし、仙台北道路に分岐して仙台方向に向かう。
このあたりから自衛隊の車両が増え始め、かなり緊張感を感じた。
海沿いに出て、三陸道に入る料金所で、緊急車両以外通行禁止の規制がかかっていた。
しかし石巻市にボランティアに行きたいことを伝えると、すぐに通行許可証を発行してくれた。
ここまでくると路面の段差は増え、補修もされていないので50km/hでたまに徐行しながらの走行となる。
石巻ICを降り、初めて津波の被災地に入る。
そこは全く海の匂いが届かないような場所だったが、道路や建物は乾いた泥で覆われていた。
家屋倒壊はあまりないが、ほとんどのスーパー・飲食店・ガソリンスタンドは営業していない。
信号が止まっている市内を走り、災害ボランティアセンターが設置されている石巻専修大学にたどり着いたのは午後4時前。結局9時間のロング・ドライブになってしまった。
石巻社会福祉協議会が運営する災害ボランティアセンターで、新規ボランティアの登録を行った。
ボランティアの活動時間は9時~16時ということで、翌日から参加することに。
いちおうテントは持ってきたが、夜は氷点下になると聞き、車内で寝ることにした。
寝床の準備を終えるとあとは特にすることもないので、大学内を探索することにした。
大学内は大きく3つのサイトにわかれていることがわかった。
・災害ボランティアセンター
・日本赤十字社の医療サイト
・周辺住民の避難所
ボランティアセンターも範囲が広く、それぞれがどういったことをやってるのかが全くつかめない。
しかもみんなとても忙しく動いているので、聞くに聞けない。
そんななか、19時からボランティアのミーティングがあると聞き、とりあえず参加してみることにした。
大学のカフェテリアに100人程が集まって会議が始まった。
自分はわけもわからず隅のほうに座って聞いていたが、おぼろげに雰囲気がわかってきた。
この会議は「石巻支援NPO連絡会議」というもので、
石巻市社会福祉協議会と各NPO・NGO団体の調整会議のようだ。
そして、調整会議が必要とされる理由は、各団体間の連携がうまくとれていないから。
正直に書いてしまうが、リーダーシップを取るべき社会福祉協議会があまりの災害の大きさに対処しきれていない。
大手のNGO・NPOが主導権を握って動いているようだ。
これは社会福祉協議会で動くよりNPOと動いたほうが有効に時間を使えそうと思い、
ある著名なNPO”P”に近づいてみる。
ちょうどデータ処理が得意な人材を探しているということだったので、立候補。
翌日から作業を始めることにした。
会議が終わってから、たまたま自分と同じタイミングで石巻入りした一般ボランティア2人と出会う。
2人とも寝る場所が無いということで、自分のテントを急遽設営することにした。
こんな寒い夜にテントを設営するのは初めて。3人でどうにか張り終え、簡単な夕食をとり、就寝。
疲れているのですぐ寝付くかと思ったが、想像以上の寒さで寝ることができない。
この日の最低気温はマイナス6度。
真夏のキャンプも暑さがこたえるが、真冬のキャンプは更にきつかった。
浅い眠りが時折り強烈な寒さに破られる。
朝が来て太陽が差し始めるとテント内も暖かくなりほっとした。
朝食を食べ、北へ向けて出発。
常磐道日立南太田ICから高速に乗る予定だったが、
その先で事故が発生しまさかの通行止。
開通した矢先に、支援物資が大量に運ばれているだろうに、通行止とは・・・。
トンネル内でのトラックの事故だそう。もしかして支援物資を運んでいたのかも知れない。
やむを得ず下道で次のICを目指す。
渋滞の中、日立中央ICまでたどり着くが、なんと今度は震度5の地震が発生してまた全線通行止めに・・・。
待っていてもいつ再開するかわからないので、常磐道をあきらめて下道で東北道を目指すことにした。
幸い東北道への道のりは空いていて、昼過ぎには福島県須賀川市に着き、東北道に乗ることができた。
東北道は80km規制であった。
自衛隊の車両、救急車や消防車の隊列、「支援物資運送中」の旗をかかげたトラックが目立つが、交通量は少ない。
路面はところどころ段差があるが、応急補修が済んでいて、100km/hで走行しても問題なかった。
福島を抜けるあたりで念のため給油をし、仙台北道路に分岐して仙台方向に向かう。
このあたりから自衛隊の車両が増え始め、かなり緊張感を感じた。
海沿いに出て、三陸道に入る料金所で、緊急車両以外通行禁止の規制がかかっていた。
しかし石巻市にボランティアに行きたいことを伝えると、すぐに通行許可証を発行してくれた。
ここまでくると路面の段差は増え、補修もされていないので50km/hでたまに徐行しながらの走行となる。
石巻ICを降り、初めて津波の被災地に入る。
そこは全く海の匂いが届かないような場所だったが、道路や建物は乾いた泥で覆われていた。
家屋倒壊はあまりないが、ほとんどのスーパー・飲食店・ガソリンスタンドは営業していない。
信号が止まっている市内を走り、災害ボランティアセンターが設置されている石巻専修大学にたどり着いたのは午後4時前。結局9時間のロング・ドライブになってしまった。
石巻社会福祉協議会が運営する災害ボランティアセンターで、新規ボランティアの登録を行った。
ボランティアの活動時間は9時~16時ということで、翌日から参加することに。
いちおうテントは持ってきたが、夜は氷点下になると聞き、車内で寝ることにした。
寝床の準備を終えるとあとは特にすることもないので、大学内を探索することにした。
大学内は大きく3つのサイトにわかれていることがわかった。
・災害ボランティアセンター
・日本赤十字社の医療サイト
・周辺住民の避難所
ボランティアセンターも範囲が広く、それぞれがどういったことをやってるのかが全くつかめない。
しかもみんなとても忙しく動いているので、聞くに聞けない。
そんななか、19時からボランティアのミーティングがあると聞き、とりあえず参加してみることにした。
大学のカフェテリアに100人程が集まって会議が始まった。
自分はわけもわからず隅のほうに座って聞いていたが、おぼろげに雰囲気がわかってきた。
この会議は「石巻支援NPO連絡会議」というもので、
石巻市社会福祉協議会と各NPO・NGO団体の調整会議のようだ。
そして、調整会議が必要とされる理由は、各団体間の連携がうまくとれていないから。
正直に書いてしまうが、リーダーシップを取るべき社会福祉協議会があまりの災害の大きさに対処しきれていない。
大手のNGO・NPOが主導権を握って動いているようだ。
これは社会福祉協議会で動くよりNPOと動いたほうが有効に時間を使えそうと思い、
ある著名なNPO”P”に近づいてみる。
ちょうどデータ処理が得意な人材を探しているということだったので、立候補。
翌日から作業を始めることにした。
会議が終わってから、たまたま自分と同じタイミングで石巻入りした一般ボランティア2人と出会う。
2人とも寝る場所が無いということで、自分のテントを急遽設営することにした。
こんな寒い夜にテントを設営するのは初めて。3人でどうにか張り終え、簡単な夕食をとり、就寝。
疲れているのですぐ寝付くかと思ったが、想像以上の寒さで寝ることができない。
この日の最低気温はマイナス6度。
真夏のキャンプも暑さがこたえるが、真冬のキャンプは更にきつかった。
浅い眠りが時折り強烈な寒さに破られる。
朝が来て太陽が差し始めるとテント内も暖かくなりほっとした。
3月23日(水)前夜、震災から12日目 [Ishinomaki]
日本に帰国して1週間が過ぎた。
実家の屋根の応急処置作業を手伝ったり、
地元の社会福祉協議会が募集している災害ボランティアに参加して、
給水所の手伝いをしたりしていた。
もう茨城県はだいぶ落ち着きを取り戻してきている。
放射線の恐怖は依然としてあるが、これはもうどうしようもない。
あと1週間、何か自分にできることはないかと、中心被災地でできることをネットで探ってみる。
しかし、まだまだ福島、宮城、岩手の各県は県外ボランティアを受け入れる状況に至っていないようす。
交通手段や宿泊・食事の確保が困難なため、地元ボランティアのみを募集している市町村がほとんど。
そのなかで気になったのが宮城県石巻市。かなり被害が大きい地域のはずだが、
他の地域にくらべボランティア募集などの情報があまり目立たない。
おそらくまだ混乱のなかにあり、人手は欲しいが集められていないのだと直感した。
この直感を信じ、翌日から石巻市に向かうことを決め、準備を始めた。
幸いにも自分はこの状況のなかでもボランティアに向かえる条件が整っていた。
①ヒマ
②健康
③物資を積めて、悪路でも走行できる車がある
④自宅から被災地までを往復できるガソリンがある
⑤テント、寝袋、コンロなどのキャンプ用品がある
というか、これだけ行ける条件が整っていて、行かない手はないよなと思った。
あとは自分の食料ということで、近所のスーパーで買い出し。
一部欠品している商品もあるが、ほぼ通常営業していた。
サトウのごはんやレトルトカレーなど、4,5日分の食料を確保することができた。
ついでにキリバスへ持ち帰る食料も入手
翌朝の出発を決め、装備を車に詰め込んだ。
今日から常磐自動車道と東北自動車道が全線開通というニュースも追い風に。
石巻市までの距離は300kmちょっと。5時間ほどで行けるだろう。
実家の屋根の応急処置作業を手伝ったり、
地元の社会福祉協議会が募集している災害ボランティアに参加して、
給水所の手伝いをしたりしていた。
もう茨城県はだいぶ落ち着きを取り戻してきている。
放射線の恐怖は依然としてあるが、これはもうどうしようもない。
あと1週間、何か自分にできることはないかと、中心被災地でできることをネットで探ってみる。
しかし、まだまだ福島、宮城、岩手の各県は県外ボランティアを受け入れる状況に至っていないようす。
交通手段や宿泊・食事の確保が困難なため、地元ボランティアのみを募集している市町村がほとんど。
そのなかで気になったのが宮城県石巻市。かなり被害が大きい地域のはずだが、
他の地域にくらべボランティア募集などの情報があまり目立たない。
おそらくまだ混乱のなかにあり、人手は欲しいが集められていないのだと直感した。
この直感を信じ、翌日から石巻市に向かうことを決め、準備を始めた。
幸いにも自分はこの状況のなかでもボランティアに向かえる条件が整っていた。
①ヒマ
②健康
③物資を積めて、悪路でも走行できる車がある
④自宅から被災地までを往復できるガソリンがある
⑤テント、寝袋、コンロなどのキャンプ用品がある
というか、これだけ行ける条件が整っていて、行かない手はないよなと思った。
あとは自分の食料ということで、近所のスーパーで買い出し。
一部欠品している商品もあるが、ほぼ通常営業していた。
サトウのごはんやレトルトカレーなど、4,5日分の食料を確保することができた。
ついでにキリバスへ持ち帰る食料も入手
翌朝の出発を決め、装備を車に詰め込んだ。
今日から常磐自動車道と東北自動車道が全線開通というニュースも追い風に。
石巻市までの距離は300kmちょっと。5時間ほどで行けるだろう。